りょうせいけんと呼びます。なんか老舗ラーメン屋、中華料理屋を思い浮かべてしまいます・・・

 ~徒然日記⑦~

ども!!田淵ですヽ(´▽)/

え~今回は前々から言ってました(はい?という方は過去ブログみてね)

高山地区方面の文化財を軽めに(言い訳)探っていきます・・・ まずは情報少な いとこから攻めてきます(´・ω・`)セメッゾセメッゾ

 「良清軒跡」
良清軒1

とにかくここは情報少ないです・・・

足を運んだ際も、下調べしたにも関わらず訳わかんなかったです。まぁ町史など をたよりに・・・なんくるないさぁ~

良清軒は長能寺の末寺(禅宗~曹洞宗)だそうです。

 ※末寺とは?一般的には本山の支配下にある寺院を指すが

 時代によって違った意味を持つ場合もあるそうです。良清軒3

旧高山町教育委員会の資料によると・・・

「寺跡には肝付氏の宝きょう印塔・五輪塔・飫肥塔(飫肥城って宮崎関連であったような
?関係あるのか?ちなみにおびって読みます)
地蔵尊・万霊塔などがある。苔むしたこれらの石塔は、古くから肝付氏の墓地であったことを物語る。
良清軒の対岸には、求摩陣(別名下し丸の陣)、北側には御幣園城(別名大脇城)があり、この一帯で激しい攻防がくり返され、多くの戦死者が出たと伝えられる」だそうです。

 

ようするにこの場所は肝付氏の墓所跡の一つで、良清軒跡地付近で戦があったわけですね。 「戦いがあったのかぁ~」と少し興味が芽生えてきました。
良清軒2
資料によると2度(1494年、1506年)島津氏10代当主「忠昌」が高山城を攻撃したそうです。肝付氏第14第当主「兼久」の時代です。

 

このお二方は仲が良かった時期もあったみたいなんですが・・・(忠昌は兼久を優遇していたという記述が町史にあります。兼久自身も一度こじれたあと忠昌との関係修復を望んでいたそうです)

 

兼久が10歳の幼少当主だった時代、家臣が忠昌と通じて反乱を起こし、兼久を追放したそうです。(1483年)

兼久は志布志の新納氏の助力を得て、当主に返り咲くが、忠昌とは険悪モード・・・それでも兼久は↑記述の忠昌との関係修復を望んでいたそうです。

↑話が綺麗すぎるような・・・?

 

しかぁ~し1494年、忠昌高山城攻撃・・・忠昌さん思いっきり関係修復する気無かったみたいです()・・・兼久勝利!!忠昌はいそぉ~

 

そして1506年、忠昌がふたたび高山城を攻撃!!(←懲りない人)

兼久は新納氏(志布志)・伊東氏(日向)の助力もあって、忠昌を退けます。

 

大敗した忠昌は鹿児島に逃げたが、領国統治の挫折と病苦に絶望し、合戦から2年後に自決しました。

 

食うか、食われるかの時代ですから・・仕方ないような・・

ちなみにこの合戦を経て、肝付氏は高山城を急速に強化したそうです。合戦で亡くなった方は無駄死にじゃなかったわけですね。ヨカッタ(*゚▽゚*)ヨカッタo(^▽^)o

 

まぁそれはおいといて・・・墓の話題に戻ります。

 

良清軒の墓所にはこの戦の戦死者を葬った塚があるそうです。

塚を探したが、見つからず・・・

なんとしても見つけねば!!・・・見つからず・・・

そもそも塚ってなに?って段階の人が一人で確認に行くのはいかん!!

まぁ少しづつですが、関心を持って知っていければと・・・

次は塚見つけるぞぉ~(≧∇≦)/(アホや)



良清軒アクセス
良清軒5
県道539側からでしたら、よく看板見えるんですけど・・・

逆側は見えません。

曲がってすぐ右手になりますので、ここまで来ればもう目の前なんですが

何回かスルーしてしまったことがあるので、入口見つけに苦労します。

良清軒4

肝付町文化財マップ←←クリック

以上です。観覧ありがとうございましたm(_ _)m

長くなりましたぁ・・申し訳ない。ん~まとめ下手・・・(独り言)次は大隅で最も強固な城「大隅国高山城」いきますヽ(´▽`)/

というか・・・史実って記録をもとにした研究者の見解も多く、何を信じていいのやら・・・?

むっかし!!←方言「難しい」

ではまた会いましょうm(_ _)m

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