飲ん方も大事だけど・・・研修頑張りましょ!!

ども!!田淵です( ̄∀ ̄)やっほぉ~い


肝付町観光協会ガイド部会
今年1回目の定例会・研修会が行われました!!
懇親会の模様もお伝えします。

 
ふるさと1回1
今回の研修は「高山まちあるき」ということで
ふるさと案内人「大野重敏」さん先導(ガイド)で、歩きながら肝付町の史跡を巡ります。
ルンルンと参りましょう(´・ω・`)


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大野さんです。よろしくお願いしますm(_ _)m
本日のまちあるきのテーマは「阿南(おなみ)ゆかりの地」です。

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肝付氏5代当主「肝付兼石」の墓。
阿南は肝付氏16代当主「兼続」の妻です。

ということで肝付氏のお墓もめぐりました。
↑↑↑阿南さんが生きた時代より、250年以前に生きた方。


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肝付氏歴代の墓
第8代兼重~第17代良兼までのお墓があるそうです。
阿南さんのお墓もあるそうです。


元々は↑で紹介しました兼石さんが創建した盛光寺跡にあったそうです。
再発掘調査などで今は↑↑↑の場所(盛光寺跡付近です)に移動しています。


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竹田神社
阿南を語る上で外せない場所です。

阿南の一生(簡易)
薩摩国の覇権を巡り、肝付氏と島津氏が対立していた時代の話
島津忠良(日新斎の号で知られ、島津の分家「伊佐家」の出身。後の島津15代当主「貴久」は実子であるが、お家事情もあり本家へ養子へ)
は実娘の阿南を肝付兼続へ嫁がせる。(政略結婚)・・・1527年

後に兼続は肝付氏16代当主となります。・・・1533年
兼続は大隅国をほぼ統一します。(肝付氏、大隅最強時代ですね)
1550年代初頭までは、兼続の計らいもあり、島津家との関係は良好だったそうです。
しかし、兼続が嫡男良兼(阿南との子)に家督を譲り、隠居して以降・・・徐々に関係がこじれ争いも激化していきます。

なんでかなぁ~???色んな説があるみたいなんですが・・・まぁお調べください。
その後、阿南は父忠良説得へ出向いた(実家加世田まで)などの記述もあります。恐らく、争うのをやめろ!!ということだと思います。
その間も息子良兼と高山城に残っている。(吾平の方に一時いたことも)

肝付氏と島津家が完全に決別して以後・・・父忠良に帰郷を、兼続に離縁を(お二方とも阿南の身の安全を考え)迫られるも拒否。(この際、忠良は80日間高山に居座り説得したそうです)
旦那・息子が父・兄弟と争い・・・もう訳わかんない状況ですね・・・

兼続、貴久、忠良が亡くなって以後・・・実家に帰るよう勧められ高須まで行ったが
「自分は肝付に嫁いだ身といい、高山へ引き返している」
その後も自らの人脈などを使い、肝付氏の滅亡をなんとか食い止めようと尽力したそうです。
結果、肝付氏は降伏しますが、帰郷せずに生涯を終えています。

切ないなぁ~なんか・・・あまりにもまわりが、権力者ばかりで・・・悲劇なことになっています・・・
ちなみに肝付の篤姫と呼ばれています。

そんな阿南が創建したのが↑↑↑の「竹田神社」です。
その他阿南絡みでは・・・「ねこの神様」という民話も伝わっています。(五社神社=ネコ神社)
おいおい紹介していきたいと思います。


長々と申し訳ない!!ガイド部会懇親会いきます。新村畜産にて!!

適当に貼っときますんでご覧下さい!!

DSC02211.jpgDSC02227.jpgDSC02250.jpg千羽鶴3DSC02361.jpgDSC02374.jpgDSC02413.jpgDSC02444.jpgDSC02432.jpg

以上です。観覧ありがとうございます。

ではまた会いましょう( ̄∀ ̄)

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